カテゴリ: 食の格言とエッセイ

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終身之計莫如樹人

 

一年之計莫如樹穀。十年之計莫如樹木。終身之計莫如樹人。一樹一穫者穀也。一樹十穫者木也。一樹百穫者人也。・・・・・・

                             ・・・・「管子」権修

 

一年の計は穀を樹うるに如くは莫く、十年の計は木を樹うるに如くは莫く、

終身の計は人を樹うるに如くは莫し。
一樹一穫なる者は穀なり、一樹十穫なる者は木なり、一樹百穫なる者は人なり。

 

一年の先までを考えるならば穀物を植えるのに及ぶものはなく、十年先を考えれば木を植えるのがよい。百年先、千年先を考えるならば人を育てることに及ぶものはない。
一を植えて一の収穫があるのは穀物であり、一を植えて十の収穫があるのは木であり、一を植えて百の収穫があるのは人である

 

妻が学校を作りたいといったのは結婚して10年経ち、家も新築してこれからの人生を考え始めた頃であった。

結婚して十数年経っても子供に恵まれなかったことで妻はまるで自分の責任のように思っているようだった。結婚して3年目ごろから夫婦で病院に通った。以来、妻は毎日というほど病院通いを続けた。周りの人たちはこのような妻の努力と悲しみに心を寄せることもなく、「子供はまだ?」、「子供は作らないの?」、「子供ができてはじめて一人前だよ! はやく作りなさい」などと揶揄しているのか忠告しているのか解らないようなことを言う。

当時、調理師学校の講師をしていた妻にとって仕事を終えた後病院に行くのは大変な負担だった。診察治療が終わるのが深夜に及ぶこともあった。疲れ、沈んだ顔で病院を出てくる妻を迎えるのは私にとっても辛かった。

そんなことが続いたある日、私たちは話し合って子供をあきらめる決心をした。

妻は強い。

それまでの思いが吹っ切れたのか、元気になってきた。

それからというもの、料理教室の講師をしたり、本の執筆をしたりと忙しく働いた。そして我が家の台所で「料理と生活知識の教室」を始めてしまったのである。

 沖縄県が主催する「女性の翼」にも参加して東南アジアを歴訪したりするうち、多くの知己を得ていった。そういう人たちとの交流をしているうちにサロネーゼ風な教室に飽き足らなくなったのであろう「学校をつくりたい」と言い出した。

家も新築して3,4年。大きな会社勤めで相応な収入もあった私にとって、家屋敷をてばなして新たなことをするということは冒険である、また時勢は経済バブル下で収入に直結しない料理やお茶、お花など家事と一般教養を教える学校など見向きもされず学生は集まらないと考えていた。

ところが、妻は違った。信念があるのだ。

大学時代から調理師学校時代まで薫陶を受けた故翁長君代先生仕込みの信念である。妻は翁長先生指導の下で調理師養成学校の教員の職にあった。そこに通う学生達は中学校出たての少年から60才代の年配の人まで老若男女さまざまである。受験に失敗した者、中途で学業を断念した者、会社の倒産で再出発を目指す者、技術を身につけて海外で一旗揚げようとする者、動機や経歴は異なっても身を立てる術を学ぼうとする学生達に接するにつけ、自分で学校を開設したいという夢が膨らんできたのであろう。

 

この学院を開設するにあたっては当初、妻と私では教育ということに考えの相違があった。長年大会社勤めで管理するという風土に染まっていた私はある事件(※1)について、

「その教諭は不注意だったね。ちゃんと子供たちを確認してから門を閉じるべきだった」

と感想を話したところ、妻は

「そではない、校門はいつでも開けておくべきだ。学びたいと思ってくる生徒がいるのであれば何時でも受け入れられるように門を開けて待つべきだ」とまったく私が考えもしないことを言った。

さらに妻は言う。

「新しいことを始めるのに年齢は関係ないし、新しいことを始めることは怖いことではない。新しい人生の出発、夢があって素敵なことだと思う。そして私はそういう人たちにこれからの女性に必要なことを教え、伝えたい。それが私の天職のように思う」

 

その時私は思った「学ぶということはその人が学びたいと思った時が学ぶに適した時、そういう人たちに門戸を開いておくのが学校の役目、教育者のつとめなのだ」と

 

私はこのような妻の教育者としての資質を認め、信じ、この糟糠の妻と共にこの道を歩むことを決めた

そして冒頭の管子の言を妻に話し、私たちは終身の計を立てたのだと。

 

(※1)

神戸のある高校で、教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒が校門にはさまれ死亡した事件


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週刊レキオに掲載されました。

記事の訂正
円満の秘訣は?
夫唱婦随→婦唱夫随(わが家の場合のみこれが正解)

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花は半開を看、酒は微酔に飲む・・・・・・菜根譚

という格言があるのだが、こういう歌もある。
水前寺清子が歌う「365歩のマーチ」の出だし!

しあわせは歩いてこない

‥‥略・・・

一日1本三日で3本
三本飲んでも飲み足らない

・・・・略・・・・

人生はワンツーワンツー

去った日曜日は父の日だったが、子のない男は寂しいものと
土曜日の句会では

     父の日や子無き男の一人酒

と詠んだのだが、今日はどうだ!

学生たちが父の日を祝ってくれた。
卒業生もお酒を持ってきてくれた。
嬉しい!
これで一日一杯にすれば2ケ月は持ちそうだ

今日は水曜日だから、いろとりどりのビールの中から軽井沢地酒の「水曜日のネコ」にしよう。

みんな!
ありがとう!!!

西大


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野菜たくさんのスープ ↑

~愛は胃の腑を通る~

 

 「愛は胃の腑を通る」という言葉をある保育園の園長先生に教えていただいたのは数年前である。

 食にかかわる教室をもち、多くの受講生の皆さんにお伝えしたいことのすべてがこめられていると思うこの言葉を最初

の言葉にしたいと思う。勿論、私が直接教室の皆さんに料理を教えることはないし、それだけの腕の持ち合わせもない。論語読みの論語知らずを地で行く者であるが食に関る格言を読み進めているうちに食の格言に関する小文を書きためておこうと思い立ち筆をとった。

 さて、私たちは己の生命を維持するために数々の食物を口にしているが、それが食餌としての機能にだけ目がむけられ、食事の時間や空間そしてなによりも料理を作る人や食べる人の「心」については関心がむけられていないように思う。冒頭の言をひけば沖縄には「ティーアンダ」という何物にもまさる調味料が各家々で伝えられているはずなのだ。ティーアンダ、これは料理を作る人、広く言えば食に関る人々の食にかける愛情そのもののことであろう。

 今では、スーパーマーケットやコンビニエンスストアーへ行けば自分の食べたい時、食べたいものが手に入る時代である。しかし、そこにはティーアンダの入る余地はない。

 私は小さいころ好き嫌いが激しく、三枚肉はいや、人参は匂いがだめ、ゴーヤーは苦い、と口に入れなかった。食糧が少ない時代であるから好き嫌いを言っていたら食べるものがない。かろうじて口に運べる物といえば卵に豆腐に油揚げとマーミナなど限られた野菜に数種の魚と干物であった。それでも母は何とか工夫して食べさせようと一所懸命だったと思う。中学校へ入り、友人の家を訪ねたりするようになると、おやつや食事をご馳走になることもあった。それが今まで食べたこともないようなハイカラなものだったりすると、我が家のチャンプルーづくしをうらめしく思い母に八つ当たりしていた。

 そのことに気づいたのか、しばらくして母は料理を習いはじめた。コロッケ、ハンバーグ、クリームスープ、筑前煮、魚の煮つけなど那覇の街にいかないと食べられない、それも大衆食堂ではなくレストラン○○、△△飯店などの陳列ケースに見るような料理やお菓子を作るようになった。人並みに背がとどかない小さな息子の成長を願っていたのであろう。そんな母の努力にもかかわらずいまだに小さいままだが、病気もせず健康に今日まで生きてこられた。

 戦中に未熟児で生まれた息子をなんとか一人前にと食事に気をつかい、自分のもてる分のティーアンダを練り込んで精一杯育ててくれた母であった。

 子供たちは成長してもその味覚や、食習慣には小さい時の母の味、母のしつけが身にしみてぬけないでいるものだ。大きくなって母の味を恋しく思うときがきっとある。母にはティーアンダたっぷりでアジクーターの料理を作ってもらいたいのである。最高の調味料を流しの下にしまい込んではいないだろうか。ティーアンダはアンダガーミに何年ねかせようとも泡盛やワインのように熟成して美味しくなるものではないのだ。世の母といわれる女性たちだけではない、料理を志す全ての人々に日々新鮮なティーアンダを使うことをおすすめする。


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